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2011年8月22日 (月曜日)

(その5)「人はよくも言われ、悪くも言われるのがよい」という説

 なぜか…?

よく言われることに慣れた者は少しばかり悪く言われただけで腹を立ててしまうようになる(これは決して望ましくない) 逆に悪く言われ続けた者はひがんでしまって、よいことをしなくなる(これも望ましくない)」

 そもそも…

「人の一生にはさまざまな波乱がある。自分自身は同一人物であるが、まわりの人や世間とのかかわり方が次々と変わっていくからだ」

 だから…

「人間はだれでも、時にはよく言われ、時には悪く言われる。
悪く言われることを完全に防ぐ方法は見出し難い」

 考えてみれば…

「人のウワサも七十五日。よく言われたところで当てにはならず、
悪く言われたとしても当てにはならない。とはいえ火のない所に煙は立たない。当てにならないところにも何かの理由がある。悪く言われる原因は、きっと自分が無意識のうちにまいた火種に基づくものに違いない。けれどもそれがなかなか見つけられない

 おそらく…

「人間は『何で悪く言われるのか』
の理由を探り当てようと努力するうちに成長していくのであろう。同時に、いかなる悪口にもめげず毅然とした態度をとる度胸も必要である。人の評判ばかり気にするのも変である」

 結局…

「人は自分が他人からどのように思われているかを考え、
悩んでいるうちに自然と消化していくのではなかろうか」

―――――――――――

 というわけで、「人はよくも言われ、悪くも言われるのがよい」ことになります。

 これはおじさんが言っているのではなくて、三宅雪嶺という人の考えです。この説を信じれば、悩めるすべての人間は、日に日に成長していることになります。

 『毀誉褒貶(きよほうへん)』という四字熟語から、この説を見つけました。

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コメント

三宅雪嶺
今回も、「初めて知る」人物です。

「人はよくも言われ、悪くも言われるのがよい」
と思えば、私のように寝込むほどクヨクヨせずにすむかもしれない。

このブログで、学ぶことが多いです。

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