(その20)和泉式部の話
平安時代の女流歌人、和泉式部の話をしましょう。百人一首の56番
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな」
という歌を詠んだ人です。
和泉式部は、とても情熱的な女性で恋愛遍歴の多い人として有名です。
はじめ橘道貞(たちばなのみちさだ)の妻となって和泉の国に下向しました。それで和泉式部と呼ばれています。ところが、京都に帰ってから夫婦仲が悪くなって別居状態になります。 美人のほまれが高く、いろんな男がアプローチしてきますが、その中で冷泉天皇の皇子の為尊親王(ためたかしんのう)と恋に落ちます。でも身分が違うので親から勘当されてしまいます。そうこうしているうちに為尊親王は病気で亡くなり、今度はその弟の敦道親王(あつみちしんのう)の求愛を受けます。敦道親王の家に同居するまでになったので、正妻が怒って離縁する騒ぎになりますが、敦道親王も若くして病気で亡くなってしまいます。最後に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)の妻となって、丹後の国に行ったまではわかっているのですが、その後はどうなったのか伝わっていない女性です。
これだけでも4人の男性が出てきます。あまりにも次々と男をかえていくので、藤原道長は和泉式部のことを「浮かれ女」と評しました。また、宮中の同僚だった紫式部は「歌や恋文はすばらしいが、素行は感心しない」と書いています。たしかに歌は大変情熱的なものを残していて、ほととんぼさんも好きです。二つ挙げてみます。
「黒髪の みだれもしらず うちふせば まづかきやりし 人ぞ恋しき」
→(エッチのあとで)髪の毛が乱れてしまうことも気にせずにうつ伏せになっているとき、その髪の毛をかきなでてくれたあの人が恋しい!
「今はただ そよそのことと 思ひ出でて 忘るばかりの 憂きこともがな」
→(敦道親王が亡くなって)いまとなっては、そうそう、そういうこともあったわ、ということばかりが思い出されてしまう。いっそのこと、忘れるくらいの嫌なことでもあればいいのにぃ。ああ、親王が恋しい!
というような歌です。日本の歴史上、情熱的な女性は万葉集時代にはいっぱいいたのですが、中国の儒教思想が入ってきたため、以後は数えるほどしかいません。中でもこの和泉式部と明治時代の与謝野晶子が有名です。
和泉式部にはこんな歌もあります。
「とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり」
→親を残して先に死ぬ悲しみと、子供を残して先に死ぬ悲しみと、どちらがより悲しいでしょう。それは子供を残して死ぬ悲しみに違いない。きっとそうだわ! 私がそうだから。
この歌にはちょっと解説が必要です。和泉式部と最初の夫(橘道貞)との間にできたのが小式部内侍(こしきぶのないし)です。百人一首60番 「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」 を詠んだ人です。この人は母親の和泉式部よりも先に死んでしまいます。そのときすでに孫もできていたのですね。小式部内侍は親も子も残して死んでいったのです。おばあちゃんの和泉式部は内侍を亡くして本当に悲しかったのでしょう。だから、子供を残したまま死んでいく娘の気持ちはいかばかりかと思ったわけです。
和泉式部という女性は男性に関してだけでなく、人間そのものに対して情熱が深かったようです。人の心を打つ歌をいくつも残しています。
(歌の解釈はほととんぼの意訳です)
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