長門前司女葬送ノ時本處ニ帰ル事(宇治拾遺物語より)
宇治拾遺物語巻三ノ十五
『長門ノ前司ノムスメ、葬送ノ時本所ニ帰ル事』
という不思議な話を見つけました。以下、現代語訳してみます。
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【今は昔、長門の国の前の国司だった人の娘が二人いた。父母が亡くなって姉妹だけになり、姉は奥の部屋に、妹は玄関脇の部屋に寝起きしていた。ところが、妹のほうが二十七、八歳のとき、病気になり亡くなってしまった。奥の部屋が狭いので、しばらくはそのまま玄関脇の部屋に亡骸を置いていた。
さて葬送する段になり、姉をはじめ親族が寄って亡骸を車に乗せ、東山の墓地(鳥辺野)へ運んでいった。そして車から降ろそうとしたところ、なぜだか棺が軽い。不思議に思ってふたを開けてみると、遺体が入っていない。「これはいったいどうしたことか。途中で落としたとも思えぬが…」と言いつつ、来た道を戻ってみたが見つかるはずもない。「もしかして?」と、もといた家の玄関脇の部屋をのぞいてみると、なんと、遺体は亡くなったときと同じように横たわっているではないか!
「こんな不思議なことがあろうか」と、一晩明けた後再び棺に入れて、今度こそふたをしっかりと閉めておいた。夕方になってふと見ると棺のふたが少し開いている。「え~っ!」と驚いた一同がこわごわそばへ寄ってみると、案の定、遺体はまた玄関脇の部屋に臥していた。みな、あきれてしまって、もう一度棺に戻そうとしたが、遺体には根が生えたようにびくとも動かない。
「どうしてもここにいたいということか。 このままでは見苦しい」 物知りの年寄りたちが相談し、玄関脇の部屋の床を壊して遺体を地面に下ろした。軽々と下ろすことができたので、そのまま埋めて高々と塚をこしらえた。家の人々もよそへ引っ越していき、「あそこは気持ち悪い」と塚の周囲には人が寄りつかず、年月が過ぎて、屋敷も朽ち果てて塚だけが残った。
…どうしたことか、いつしか塚の上に社(やしろ)が作られ、今に至っている】
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原文によるとこの説話の場所は、京都市内の「高辻より北、室町より西」とのことで、現在の繁昌神社のあたりだと思われます。
一説では、死んだ娘の名前が「班女(はんにょ、はんじょ)」といい、それが「繁昌(はんじょう)」になったのだそうです。繁昌神社のいわれ書きには、御祭神は三人の女神である(弁天さんとも)と書かれています。班女といい、女神といい、いずれにせよ女性を祀ってあることにはかわりないので、この説話が全くの作り話とも思えず、神社の由来に何らかの影響がありそうです。後世、室町通り沿いは商いで栄えたので、商売繁昌の神社として現在に至っているそうです。
現地に確認に行ったところ、こじんまりとした、小さな神社でした。
宇治拾遺物語は約800年前に成立したといわれています。800年前、この場所で何があったのでしょうか? それにしても不思議な話ですね。
(現代語訳の部分は、簡単なストーリーの意訳であることをおことわりしておきます)
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