信長の「是非に及ばず」を考える。
天正10年(西暦1582年)6月2日早朝、明智光秀は「播磨の羽柴秀吉の応援に行け」という織田信長の命令を受け、亀岡から老ノ坂峠を越えて桂川までやってきました。そして、本来ならば西国街道(今の国道171号線に近い道)を西へ向かうところを、なぜか桂川を渡って本能寺の信長を襲います。『是非に及ばず』とは、光秀の謀反を知ったときに信長が言ったとされている言葉で、「信長公記」に書かれています。
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信長公記は信長の家来の太田牛一という人が書いたもので、信長が死んだ直後に書かれたので、結構信頼できる書物とされています。是非に及ばずは、本能寺で信長から逃げるように指示された女衆に聞いた話として書かれているそうです。
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この言葉をどのように解釈すればいいのでしょうか。単純に、『よいも悪いも、こうなった以上は仕方ない』 という意味に取り、あきらめの境地から発せられた言葉だとすれば、信長は光秀が謀反と聞いて、『あぁ、やっぱり…』と思ったことになります。信長には謀反の心当たりがあったのです。
本能寺の変の原因としては、
1、信長による光秀イジメ怨恨説、または光秀野望説→日ごろ信長に強くあたられ、イジメられていた光秀が単独で引き起こしたとする説です。「お話」としてはこの説が一番おもしろいです。
2、足利義昭陰謀説→光秀はもともと足利義昭の家来です。室町将軍の地位を追われた義昭は、信長に腹を立てていたでしょうから、義昭が光秀をそそのかしたという可能性はあります。
3、朝廷陰謀説→本能寺の変の直前に、朝廷は信長に官位をさずけようとしたところ、信長は曖昧な態度を取っていたようです。これはもしかして信長は天皇にとって代わろうとしているのではないか? と考えた朝廷が光秀をそそのかした、ということでしょうか。これも可能性はあると思います。
4、その他の説→秀吉陰謀説。イエズス会黒幕説。
などなど、さまざまな説があります。結局は光秀本人に聞いてみないとわかりません。本能寺の変の直前に愛宕神社の連歌で詠んだとされる発句、【時は今雨が下知る五月かな】に、よく言われるように、「時」=「土岐」(光秀は美濃の土岐氏ゆかりの人物でした)、「雨が下知る」=「天が下治る」(天下を治める)という意味が寓意されていると考えれば、光秀に天下取りの野望があったのは間違いないでしょう。もっとも、この句さえ光秀が作ったかどうかあやしいとなると、どうしようもありませんが…。
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上司に公衆の面前で罵倒され、足蹴にされ、それでプッツン切れたというのはどんな社会でもありがちなことです。私達も普段の暮しの中で結構目撃する出来事です。信長の元で光秀は日々『気持ちよく働いていなかった』のです。是非に及ばずという信長の言葉は、光秀に恨みを持たれていたことを暗示しています。少なくとも記録に残した信長公記の作者太田牛一は、光秀怨恨説をにおわせているような気がします。人間『気持ちよく生きる』ことの大切さを、本能寺の変は教えてくれているのです。
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