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2012年9月29日 (土曜日)

故有之以為利 無之以為用(老子)

老子、第十一章を鑑賞し、あわせて古典名句の言葉のリズムを考えてみます。

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三十輻共一轂(さんじゅうのふく ひとつのこくをともにす)

當其無有車之用(そのむにあたって くるまのようあり)

埏埴以為器(つちをうちて もってうつわをつくる)

當其無有器之用(そのむにあたって うつわのようあり)

鑿戸牖以為室(こゆうをうがちて もってしつをつくる)

當其無有室之用(そのむにあたって しつのようあり)

故有之以為利(ゆえに ゆうのもってりをなすは)

無之以為用(むのもってようをなせばなり)

意訳:(車輪というものは)三十本の輻(ふく)が、ひとつの轂(こしき)に集まってできており、中央の(車軸をさしこむための)空間があってこそ、その用をなしている。粘土をこねて器をつくるが、中央の(くぼんでいる)空間があってこそ、その用をなしている。戸や窓を作って部屋はできているが、(中の)空間があってこそ、その用をなしている。

このように、何かがあって利益がもたらされるのは、何もないところに効用があるのである。

※輻=自転車でいえば車輪のスポークのこと。轂=車軸を通す穴のこと。

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この章は、いわゆる「無用の用」について説いています。。一見無用に見える何もない空間にこそ効用があるという主張です。言われてみれば確かにそのとおりです。目に見える存在だけで世の中が成り立っているわけではないことに気づかされます。

同じように

仏法は障子の引き手峰の松火打ち袋に鶯の声

(ぶっぽうはしょうじのひきてみねのまつひうちぶくろにうぐいすのこえ)

という歌があります。意訳すれば、

障子の引き手、峰の松、火打ち袋、鶯の声…いずれも無用のようにも思えるが、そういうものにも仏さまは宿っておられるのである

ということになります。世の中のすべてのものは仏に成る(成仏)という「草木国土悉皆成仏」に近いのでしょうが、老子と同様に「無用の用」を説いているとも考えられます。

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そして私が感じるのは、ともに文章のリズムがよいことです。

老子の文章で言えば、「○○にあたって××の用あり」という三つの繰り返しにより、論旨を小気味よく展開しています。「仏法は」の歌は、動詞を使っていません。いきなり「仏法は、」と置いて、四つの例をあげているだけです。にもかかわらず、とても心に残るのはなぜでしょう。両者に共通するのは、意味内容もさることながら、言葉のリズム、語呂のよさです。ここに古典の古典たるゆえんがあります。

【399】

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