四五人に月落ちかかるおどり哉(蕪村)
蕪村の句を鑑賞します。
(英一蝶が画に賛望まれて)
【四五人に月落ちかかるおどり哉】(しごにんにつきおちかかるおどりかな)
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この句を解釈するにあたって、東洋文庫の「蕪村句集講義」を読んだところ、あまりのおもしろさに、読みふけってしまいました。
「蕪村句集講義」というのは、正岡子規、内藤鳴雪、佐藤紅緑、河東碧梧桐、高浜虚子などが、蕪村句集を輪講したものの記録です。蕪村句集の一句一句について、ひとりが解釈を述べ、他の出席者が批評するという形をとっています。
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紅緑氏曰。
『(前略)…私は嘗て蕪村がこの賛を書いてゐる踊の画を見た事がある。(中略)四、五人にといふのでもう踊りも淋しくなり、夜が更けて月が横合ひからさして来る。其に顔を照らされて踊ってゐる趣きであろう。落ちかかるといふのは、月光が横合ひから人の顔を照らしてゐるのを面白く形容した言葉である。…(後略)』
碧梧桐氏曰。
『紅緑君の解によると、始めは大勢人がゐたのが、夜が更けて四、五人になったとあったが、左様な時間的な想像は全く無いと思ふ。唯四、五人踊ってゐる、其を月光が浴びせかけるやうに照らしてゐる、其瞬間を叙したのである。』
虚子曰
『(前略)これは矢張月が西空に落ちたので、紅緑君の解の如く踊りが夜更けて四、五人になった、月も西空に落ちた、という景色を思ひ切って四、五人の上に月が落ちかかるといったのではあるまいか(後略)』
などと議論は進み、鳴雪が、『私は碧梧桐君のように解したい』と言えば、虚子が『それはわかりかねる』といった具合で、まさに甲論乙駁、各人各様の解釈があるもので、読むものはクスクス笑いを浮かべてしまいます。
結局最後に「子規いふ」として、
『無論虚子君の解の通りでよいのだが、鳴雪翁の碧梧桐君のやうに解したいという注意の点がよく自分の考へに合している。即ち夜が更けたから月が落ちるといふ主観ばかりになっては面白くないので、大きな月が人の上に落ちかかっている客観的の景色の方が主にならねばならぬのである。要するに此句を以て夜の更けた踊り場の景色を主観的に説明したのではなく、客観的の景色を主として見せるのであるといひたいのである』
で、この句の輪講記録は終わっています。要するに、ほととんぼ的に意訳すれば
『寂しく四五人だけが踊っているところを月が皓々と照らしている。(という叙景を述べた句)』 でいいのだと思います(笑)
それにしても、たった十七文字の短詩に、これほどまでの議論を戦わすことができるのが、俳句の醍醐味です。「蕪村句集講義」を読めば、自分なりに俳句を解釈するのが楽しくなります。
※参考&引用、東洋文庫「蕪村句集講義3」平凡社。
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