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2012年9月20日 (木曜日)

修行者の径にめづるききゃうかな(蕪村)

堀川通り沿いにある晴明神社におまいりしたら、蕪村の句が掲出されていました。鑑賞してみます。

修行者の径にめづる桔梗かな(しゅぎょうしゃのこみちにめづるききょうかな)

3903(晴明神社)

意訳:修行僧が小道のかたわらのキキョウを愛でているなぁ。

…意訳してみたものの 「はて? 何のこと?」とわけがわかりません(笑)

3902(蕪村の句と晴明神社本殿)

そこで、今回は蕪村全集(尾形仂・森田蘭校注、講談社)を引いてみました。それによると、この句は伊勢物語九段「宇津の山」の話をもとに作句しているとのことでした。伊勢物語九段というのは、「昔をとこ(在原業平)」の東下りの話です。該当の部分だけを書きだすと、

【(前略)行き行きて、駿河の国のいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つた、かへでは茂り、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。『かかる道はいかでかいまする』といふを見れば、見し人なりけり。(後略)】

意訳:(前略)ずぅーっと進んで行って、駿河の国に着いた。宇津の山まで到ると、これから入ろうとする道はとても暗くて細かった。ツタ(蔦)やカエデ(楓)が茂り、心細くなって、とんでもない目に遭うものだと思っていると、修行の僧侶に出会った。『このような道をどうして通っておられるのですか』と話しかけてくるのを見れば、昔の知人であった。(後略)

さて、蕪村には、

修行者のしぐれをはづす径かな(しゅぎょうしゃのしぐれをはずすこみちかな)

の句があり、「諸国行脚で旅慣れた修行僧が時雨降る街道を避けて小道を進んで行く情景」と解釈されています。小道には右から左から木々が生い茂っていて、雨がかかるのを防いでくれます。 濡れるのを嫌がって、わざと街道を外れて行く修行僧の姿に俳諧があり、明らかに宇津の山を題材にしています。そして、修行者+時雨の句が明和七年(1770年)、修行者+桔梗の句が安永六年(1777年)の作とされていますから、修行者+桔梗の句を詠んだとき、蕪村が伊勢物語の宇津の山の話を意識していたのは間違いないようです。

安永六年のある日、蕪村は、たまたま修行僧の桔梗を愛でている姿に出逢い、以前にも詠んだことのある、宇津の山の話を思い出したのでしょうか。伊勢物語には宇津の山の話の前に、例のかきつばたの話があります。とすれば、この句は、「ききょう」から「かきつばた」を連想させるところに、俳諧があるのかもしれません。

ーーーーー

で、どうして晴明神社にこの句が掲げてあるかというと、それは、晴明神社の社紋(五芒星)を桔梗印と呼んでいるからだそうです。

3904

境内のあちらこちらに桔梗が植えてありました。

3901

たしかに☆の形をしていますね(笑)

※上記蕪村全集によると、径を「こみち」、修行者は「すぎょうざ」と読ませています。

【390】

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