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2012年10月12日 (金曜日)

飲酒 其五 (陶淵明)

陶淵明の連作五言詩「飲酒」より、其五を鑑賞します。

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結廬在人境(いおりをむすんでじんきょうにあり)

而無車馬喧(しかもしゃばのかしましきなし)

問君何能爾(きみにとうなんぞよくしかるやと)

心遠地自偏(こころとおければちおのずからへんなり)

采菊東籬下(きくをとるとうりのもと)

悠然見南山(ゆうぜんとしてなんざんをみる)

山気日夕佳(さんきにっせきによく)

飛鳥相与還(ひちょうあいともにかえる)

此中有真意(このうちにしんいあり)

欲弁已忘言(べんぜんとほっしてすでにげんをわする)

(意訳)

人里に廬(いおり)を構えているが、車馬の音がうるさいとは思わない。「どうしてそんなことができるのですか」と問われる。「心が俗世間から離れていれば、環境だって自然に辺鄙(へんぴ)になるのさ」とこたえる。東の垣根で菊を摘み、悠然と南の山を見る。山は夕暮れ時がよい。鳥が連れだってねぐらへ帰ってゆく。ここに、私の真意があるのだ。そのことを詳しく説明しようと思ったが、もう言うべき言葉を忘れてしまったよ。

この詩、陶淵明が四十歳前後の作とする説、五十三歳ころの作とする説の二説あるそうです。いずれにしても中年以降の作品であることに間違いないでしょう。なんともいえない風格、悟りの境地を感じます。「此の中に真意有り」と言っておきながら、「弁ぜんと欲して已に言を忘る」というのは、いったいどういうことでしょう。達観と言えば達観、なげやりと言えばなげやりです。でも、そこがおじさん好み。いいですねぇ。人生哲学を感じます。好んで鑑賞される方も、この部分に心ひかれるのでしょう。

この詩を翻案したと思われる一茶の句、

ゆうぜんとして山を見る蛙哉】(ゆうぜんとしてやまをみるかわずかな)

は、カエルを登場させただけの換骨奪胎ですが、陶淵明の心にふれた一茶の心までわかるような気がして、うれしくなります。うまく詠んだものです。ただ、こういう句って、一茶が詠んだから後世にまで残ったのでしょうね。無名氏が句会で詠んでも、その場限りです(笑)

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廬を結んで人境に在り

而も車馬の喧しき無し

君に問う何ぞ能く爾るやと

心遠ければ地自ずから偏なり

菊を采る東籬の下

悠然として南山を見る

山気日夕に佳く

飛鳥相与に還る

此の中に真意有り

弁ぜんと欲して已に言を忘る

【412】

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