風吹けば沖つ白波龍田山夜半にや君がひとり越ゆらむ(伊勢物語)
伊勢物語二十三段(古今集994)の歌を鑑賞します。
【風吹けば沖つ白波龍田山夜半にや君がひとり越ゆらむ】
(かぜふけばおきつしらなみたつたやまよわにやきみがひとりこゆらん)
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(意訳)
風が吹けば沖に白波が立つという…、龍田山を今夜あの方はひとりで越えてゆこうとしているのだわ。
歌の背景は、伊勢物語二十三段や古今集の左注を読めばわかるので省略します。この歌、何といっても言葉の響きがすてきです。
普通「かぜふけばおきつしらなみ」までは序詞で、「龍田山」に掛っているだけで意味はない、と解説されます。でも、歌というのはそんなに簡単に割り切れるものではありません。
kazefukeba okitsusiranami tatsutayama / yowaniyakimiga hitorikoyuram
ローマ字で書いても、これといった法則性のようなものは発見できません。強いて言えばa音の多いことで語感をよくしているのでしょうか。龍田山で切れていることも、後半の盛り上がりを誘う要因になっています。序詞の効用と言ってしまえばそれまでですが、とにかく前半は語感のよさで迫ります。「風吹けば沖つ白波龍田山」と一気に読めば、なぜか快い気分になります。
そして、「よわにやきみがひとりこゆらむ」です。ここから作者は、我が君のことを気にかけているのだよ、ということを、語感ではなく、理屈で読者に迫ってきます。夜半→君→ひとり→越ゆ、と言葉を並べ、読者に連想させます。読み終えた読者は、一瞬の間をおいて「なるほど。いい歌だなぁ」と感動するのです。語感で迫り、理屈で感動させるこのテクニック。日本語の美しさ、古典の素晴らしさを感じます。
龍田山に白波を掛けてくるのは、ちょっと違和感があるなと思ったら、白波には盗賊の意味があることを知りました。解釈としては俄然おもしろくなります。
それにしても、「意訳すればどうしてこうも歌のよさが失われてしまうのか」とひとりごちたくなります。詩歌鑑賞は、字面を目で追うだけでなく、声に出して読む必要があります。
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