霜月のついたちの日。(紫式部日記より)
本年9月、「古典の日に関する法律」が公布施行され、11月1日が古典の日と定められました。私のような古典好きにとっては、とても喜ばしいことです。でも、なぜ11月1日が古典の日なのでしょう。それは、紫式部日記の寛弘5年(西暦1008年)11月1日の記事が、源氏物語の存在が確かめられる最初の記事だからだそうです。いったいどんな記事なのか、調べてみました。
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御五十日は霜月のついたちの日。
(中略)
左衛門の督、「あなかしこ。このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」とうかがひ給ふ。源氏に似るべき人も見え給はぬに、かのうへはまいていかでものし給はむと、聞きゐたり。
(後略)
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御五十日というのは、紫式部のお仕えする中宮彰子と、一条天皇のあいだに生れた敦成親王(後一条天皇)の生後五十日のお祝いのことです。左衛門の督は、当時物知りで有名だった藤原公任です。お祝い事のあと宮中で宴会があり、少々酔っぱらった藤原公任が紫式部たち女房のそばへ来て言います。
「ちょっと失礼。このあたりに、わかむらさきさんはいませんか?」
わかむらさき(若紫)とは、もちろん源氏物語に出てくる紫の上のことです。藤原公任は、酔いに任せて作者の紫式部をからかおうとしたのです。公任の言い方にいささかムッとした式部は、
…光源氏みたいな素敵な方がこの場におられないのに、まして最愛の紫の上がいるものですか。いるわけないでしょ!
と、知らぬふりして聞き流した…
というのです。記事によれば、これが寛弘5年の霜月のついたちの日のことでした。
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藤原公任の茶化し方を考えると、当時すでに源氏物語が宮中で評判だったことがわかります。紫式部は、源氏物語が好評なことを知っていたからこそ、知らぬふりもできたのでしょう。作品に自信もあったでしょう。日記に書き残すくらいの気位の高い女性だったようです。
それにしても、いくら源氏物語が古典の中の古典であっても、この記事だけをもとに11月1日を古典の日とするには、ちょっと納得できない気がします。古典と言えば、思いつくままに挙げてみても、万葉集、古今集があり、徒然草や枕草子、芭蕉だって捨てがたいです。たとえば古今集は延喜5年4月18日(905年)に奏上されたそうですし、芭蕉が奥の細道の旅に出たのは元禄2年3月27日(1689年)となっています。
思うに11月1日を古典の日としたのは、11月3日の文化の日との関係が大きいのでしょう。今回は祝日とする案は見送られたそうですが、祝日と祝日のあいだは休日になります。11月1日が祝日になれば3連休です。給料が増えない昨今、休みだけ増えるのも考えものですが、連休と聞くとうれしくなるのが人情ってもんです。
あと、紫式部日記では11月1日とは言ってません。「霜月のついたちの日」です。月が始まる、月が立つから「月立ち」。それが「ついたち」になりました。そして霜月。11月と書いたのでは、季節感が出ません。いよいよ霜が降りてもおかしくないくらいに朝晩寒くなる季節。新暦と旧暦は違います。紫式部日記のこの文章から古典の日を決めるのであれば、もっと鑑賞の領域を広げてから決めてほしいものです。「霜月のついたち」で終わらず、「ついたちの日」とまで言うところにもみやびを感じます。
霜月のついたちの日…
いいですねぇ。日本語が美しいです。
古典の日を設けることには大賛成です。ひとりでも多くの方に古典のすばらしさを感じていただけたらいいと思います。だから11月1日古典の日でも、まぁ、いいか(笑)
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