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2012年12月29日 (土曜日)

ともかくもあなた任せのとしの暮(一茶)

一茶

ともかくもあなた任せのとしの暮】(ともかくもあなたまかせのとしのくれ)

を、「おらが春」の文章とともに鑑賞します。

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 他力信心信心と、一向に他力にちからを入て頼み込み候輩は、つひに他力縄に縛られて、自力地獄の炎の中へぼたんとおち入候。其次に、かゝるきたなき土凡夫を、うつくしき黄金の膚になしくだされと、阿弥陀仏におし誂へに誂ばなしにしておいて、はや五体は仏染み成りたるやうに悪るすましなるも、自力の張本人たるべく候。

 問ていはく、いか様に心得たらんには、御流儀に叶ひ侍りなん。答ていはく、別に小むつかしき子細は不存候。たゞ自力他力、何のかのいふ芥もくたを、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生の一大事は、其身を如来の御前に投出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第あそばされくださりませと、御頼み申ばかり也。如斯決定しての上には、「なむ阿みだ仏」といふ口の下より、欲の網をはるの野に、手長蜘の行ひして、人の目を霞め、世渡る雁のかりそめにも、我田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持つべからず。しかる時は、あながち作り声して念仏申に不及、ねがはずとも仏は守り給ふべし。是則、当流の安心とは申也。穴かしこ。

  ともかくもあなた任せのとしの暮
                            五十七齢 一茶
文政二年十二月廿九日


(意訳)

他力信心他力信心と、ひたすらに他力ということに力を入れて仏にすがる者は、結局他力の縄に縛られて、かえって自力地獄の中へボタンと落ちてしまう。さらに、『このような汚れた凡夫を美しい黄金の膚にしてください』と、阿弥陀様に押しつけっぱなしにしていながら、早くも五体は仏になったとの誤った悟りを得て、すまし顔でいるのも、また自力の張本人である。

では、どのような心構えでいれば、御宗旨の流儀に叶うのだろうか? と問うてみる。答えはこうだ。

別に小難しい仔細はないのである。ただ、自力がどう、他力がどう、というつまらない考えをさらりと捨てて、来世の問題は、その身を阿弥陀如来の前に投げ出して、『地獄でも極楽でも、阿弥陀様のお計らい次第でございます。どうぞ思し召しの通りにしてくださいませ』と、お頼みするだけでいいのである。

このように心が定まったならば、「南無阿弥陀仏」と言うその口から、欲の網を張って、手長蜘蛛のように人の目をかすめたり、世渡りのためとはいえ、かりそめにも我田引水の心は、ゆめゆめ持ってはいけない。

それさえできれば、わざわざ声を美しくして念仏を唱える必要もないのである。何も願わずとも、仏さまはお守りくださるであろう。これがすなわち、当宗門の「安心」というものである。あなかしこ。

 【ともかくもあなた任せのとしの暮】

                           五十七歳 一茶

文政二年(1819年)十二月二十九日

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(訳注)

他力信心→阿弥陀仏の慈悲にすがり、一心に念仏して極楽往生を願うこと。

黄金の膚→阿弥陀仏の肌は黄金といわれる。

御流儀→浄土真宗の本旨。

芥もくた→塵芥(ちりあくた)、つまらぬこだわり。

ちくらが沖→一説によると、筑紫と新羅の潮境にあたる遠い海のこと。

後生の一大事→来世に関する大問題。

あなた様→阿弥陀如来を指す。

はるの野→「欲の網を張る」と「春」に掛ける。

手長蜘→俗に盗癖のあることを手が長いという。

霞め→「春の野の霞」と「掠め」に掛ける。

世渡る雁→「かりそめ(仮初め)」に掛ける。

当流の安心→真宗でいう安心(あんじん)の境地。

ともかくもあなた任せ→なにもかも阿弥陀様にお任せする意。(文末上欄に注記あり。「親鸞上人 隔ヌル地獄極楽ヨクキケバ只一念ノシハザ也ケリ」

※参考:「父の終焉日記 おらが春」(岩波文庫)

【490】

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