藪いりやよそ目ながらの愛宕山(蕪村)
蕪村の句
【藪いりやよそ目ながらの愛宕山】(やぶいりやよそめながらのあたごさん)
を鑑賞します。
(意訳)薮入りで帰省する奉公人が、愛宕山をよそ目にちらちら見ながら歩いている。「あの形、あの高さ、なんとなく気になるんやなぁ」
(JR円町駅より)
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京都の街から西北方向に見える山が愛宕山です。頂上のあたりがポコンと飛び出しているのですぐにわかります。
この山、あたごさんでしょうか? それともあたごやまでしょうか? Wikipediaには両方のふりがなが併記されています。年配の方にあたごさんと呼ぶ方が多く、私自身も親しみを感じます。山頂の愛宕神社は火伏せの神様として知られています。台所の壁に火の用心のお札を貼ってあるのをよく見かけます。
薮入りとは、正月十六日(旧暦)に、住み込みの奉公人が実家へ帰ることのできた風習です。労働環境の変わった戦後はほとんど見られなくなりました。なぜ薮入りというかについては、「都会の奉公先から田舎の実家(薮が深い)へ帰るから」とか、「宿入り(やどいり)が訛った」とかの説があります。「薮医者」という例でわかるように、薮(やぶ)には「凡庸な」という意味があり、高貴な奉公先に対して貧相な実家を卑下した言葉とも考えられます。
蕪村の句は、「よそ目ながらの」が効いています。京都人にとって、愛宕山はどこか気になる山容をしています。蕪村の当時は現在のように高い建物もなかったことでしょう。横目でちらちらと眺めながら実家への道を急いでいる。奉公先での出来事を思い出す。久しぶりの薮入りや。あれを食べたい。これを話したい。親兄弟の顔が浮かぶ。それにしても愛宕山の形は変わらんなぁ…、ひとり歩きながら思いをめぐらしている、そんな情景です。
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