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2013年2月14日 (木曜日)

いかりをうつさず、あやまちをふたたびせず(論語)

哀公問、弟子孰為好学、孔子対曰、有顔回者、好学、不遷怒、不貳過、不幸短命死矣、今也則亡、未聞好学者也(雍也第六・3)

 

『哀公問う、弟子孰か学を好むと為す。孔子対へて曰く、顔回なる者有り、学を好む。怒りを遷さず、過ちを再びせず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。』

(意訳)哀公が孔子に質問した。「お弟子さんの中で、だれが学を好みますか?」 孔子はこたえて言った。「顔回という者がおり、学を好みました。怒っても八つ当たりすることはなく、同じ過ちを二度と繰り返しませんでした。ただ、不幸にして、短命で亡くなりました。なのでいまはおりません。それ以来、学を好む者を存じません。」

 

論語雍也篇のこの章、いいですねぇ。流れるような文章とはこのことです。順を追って鑑賞します。

 

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あいこうとう ていし たれか がくをこのむとなす

 

→弟子と書いて「ていし」と読むのが読み癖だそうです。論語素読の歴史を感じます。これだけで文章の品格が上がります。

 

こうし こたえていわく がんかいなるものあり がくをこのむ

 

→普通は「子曰」で始まりますが、「孔子対曰」とあるのは哀公は主君だからです。哀公の質問に、考える間もなくすぐに顔回の名を出したのは、孔子のお気に入りの弟子だったからです。孔門十哲の筆頭、“徳行には、顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓”(先進篇)・・・です。

 

いかりをうつさず あやまちをふたたびせず

 

→怒っていても人に八つ当たりすることがなかった or 怒るときには怒りの方向を間違えなかった の二つの解釈があります。そして同じ失敗を二度とすることがなかった。…常人にはなかなかできないことです。

 

ふこう たんめいにしてしせり

 

→え? 若くして死んじゃったの? 

 

いまや すなわちなし

 

→そうなんだ…。美人薄命、天才早逝とはこのことか。かわいそうな顔回。

 

いまだ がくをこのむものを きかざるなり

 

→「彼が亡くなってから、学を好む者はおりません・・・。」 考証によると、この問答は孔子最晩年のことのようです。老齢の身で最愛の弟子を失った孔子の、がっかりした様子が眼に浮かびます。こちらまで悲しくなります。

 

ーーーーー

 

さて、学を好むとはどういう人のことでしょう? もちろん今に言う「学問好き」「勉強好き」ではありません。種々の解説書を読みあわせてみると、人間形成のできた人。道徳を実践できる人。高いレベルの内省を深めた人。・・・のようです。なるほど、よほどすばらしい人間だったんだ、顔回は!

 

我が身に振り返って、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」ではないが 「そういうものに わたしはなりたい」 と思います。

 

【537】

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