いかりをうつさず、あやまちをふたたびせず(論語)
哀公問、弟子孰為好学、孔子対曰、有顔回者、好学、不遷怒、不貳過、不幸短命死矣、今也則亡、未聞好学者也(雍也第六・3)
『哀公問う、弟子孰か学を好むと為す。孔子対へて曰く、顔回なる者有り、学を好む。怒りを遷さず、過ちを再びせず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。』
(意訳)哀公が孔子に質問した。「お弟子さんの中で、だれが学を好みますか?」 孔子はこたえて言った。「顔回という者がおり、学を好みました。怒っても八つ当たりすることはなく、同じ過ちを二度と繰り返しませんでした。ただ、不幸にして、短命で亡くなりました。なのでいまはおりません。それ以来、学を好む者を存じません。」
論語雍也篇のこの章、いいですねぇ。流れるような文章とはこのことです。順を追って鑑賞します。
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『あいこうとう ていし たれか がくをこのむとなす』
→弟子と書いて「ていし」と読むのが読み癖だそうです。論語素読の歴史を感じます。これだけで文章の品格が上がります。
『こうし こたえていわく がんかいなるものあり がくをこのむ』
→普通は「子曰」で始まりますが、「孔子対曰」とあるのは哀公は主君だからです。哀公の質問に、考える間もなくすぐに顔回の名を出したのは、孔子のお気に入りの弟子だったからです。孔門十哲の筆頭、“徳行には、顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓”(先進篇)・・・です。
『いかりをうつさず あやまちをふたたびせず』
→怒っていても人に八つ当たりすることがなかった or 怒るときには怒りの方向を間違えなかった の二つの解釈があります。そして同じ失敗を二度とすることがなかった。…常人にはなかなかできないことです。
『ふこう たんめいにしてしせり』
→え? 若くして死んじゃったの?
『いまや すなわちなし』
→そうなんだ…。美人薄命、天才早逝とはこのことか。かわいそうな顔回。
『いまだ がくをこのむものを きかざるなり』
→「彼が亡くなってから、学を好む者はおりません・・・。」 考証によると、この問答は孔子最晩年のことのようです。老齢の身で最愛の弟子を失った孔子の、がっかりした様子が眼に浮かびます。こちらまで悲しくなります。
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さて、学を好むとはどういう人のことでしょう? もちろん今に言う「学問好き」「勉強好き」ではありません。種々の解説書を読みあわせてみると、人間形成のできた人。道徳を実践できる人。高いレベルの内省を深めた人。・・・のようです。なるほど、よほどすばらしい人間だったんだ、顔回は!
我が身に振り返って、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」ではないが 「そういうものに わたしはなりたい」 と思います。
【537】
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