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2013年2月 1日 (金曜日)

葱買て枯木の中を帰りけり(蕪村)

蕪村句集より、

【葱買て枯木の中を帰りけり】(ねぎこうてかれきのなかをかえりけり)

を鑑賞します。

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萩原朔太郎は「郷愁の詩人 与謝蕪村」で、この句を次のように解説しています。

『枯木の中を通りながら、郊外の家へ帰って行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家。冬空に凍える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何という沁々とした人生だろう。古く、懐かしく、物の臭いの染みこんだ家。赤い火の燃える炉辺。台所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活! この句の語る一つの詩情は、こうした人間生活の「侘び」を高調している。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛しているのである。芭蕉の俳句にも「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接実感した侘びであり、特にこの句の如きはその代表的な名句である。』

十七文字を直訳すれば、ネギを買って枯木の林の中を帰ってきた、というだけのことです。よくぞここまで拡大解釈をしたなぁ、というのが正直な感想です。

この句、「ねぎか(買)いて」、「ねぶかかいて」、「ねぎこ(買)うて」、「ねぶかこうて」 といろいろな読み方ができます。一説によると安永6年(1777年)の作ではないかとのことで、蕪村が60歳のころ京都で詠んだものと思われます。ここは京言葉で軽く「ねぎこうて」と読みたいところです。(朔太郎も「ねぎこうて」と読ませています) 蕪村句集以外にも下五を「帰るかな」として出ている句集があり、そうすれば軽い詠嘆の意味を含んでいます。

「さぁ、ネギも買うたし、いつものように枯木の道を通って帰るとするか」

くらいのノリで作ったと考えるのが普通ではないでしょうか。買ってきたネギを見つめながら枯木の中を歩く蕪村の頭には、多少自分の人生や家族のことがあったにせよ、それは毎度のことであり、句作の直接の背景ではないように思うのは読みが浅すぎるわけですね。朔太郎が鑑賞した昭和初期と、平成の現代と、文学作品は時代背景によっていろいろな解釈をされるものだというひとつの例かもしれません。

「ネギ」と「枯木」の取り合わせを、ここまで読み解く朔太郎はすごいなぁと思います。蕪村もさぞ感激していることでしょう。実際、何を思ってこの句を詠んだのか、直接蕪村に聞いてみたいものです。

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というわけで、わが家でもネギを買ってきました。

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↑「枯木」と「ネギ」で記念撮影です(笑)

【524】

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