春日偶成、其一(漱石)
夏目漱石の漢詩 「春日偶成」より、其一を鑑賞します。
莫道風塵老(いうなかれ ふうじんにおゆと)
當軒野趣新(けんにあたれば やしゅあらたなり)
竹深鶯亂囀(たけふこうして うぐいすみだれさえずり)
清晝臥聽春(せいちゅう がしてはるをきく)
意訳:言ってはいけないよ、『俗世間の中で歳をとったなぁ』などと。軒先(のきさき)に出てみれば自然の趣(おもむき)に新たな感動があるものだ。ほら、あの深々と茂った竹薮のあちこちでウグイスが囀(さえず)っているだろう。清らかな昼間だね、ちょっと寝転んで一緒に春を聴こうじゃないか。
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「しゅんじつ ぐうせい」 まずタイトルがかっこいいです。今回は其一だけを取り上げましたが、実はこの詩は其十まであるんです。五言絶句ですから20字×10で計200文字。それだけの漢字を並べた詩がそう簡単にできるわけがないでしょうに、『春の日にたまたまできた』とは、なんとオシャレでしょう。私なんか、さすが漱石、すごいなぁと、これだけで感動です。そして出だしがまたすばらしい。
「いうなかれ ふうじんにおゆと」 読み方としては「ふうじんにおゆというなかれ」でもいいのですが、やはり「いうなかれ」と切り出すほうがいい。今後の展開への期待感が違います。え? 何が? って感じです。そうしたら「ふうじんにおゆ」ときました。『風塵(俗世間)にまみれて歳をとったものだ。』 なるほど、たしかに世渡りは、風に舞う塵のようなものかもしれません。このとき漱石は45歳。漱石なればこその言葉の重みですが、人間それなりの年齢になると、だれもが同じような感慨に打たれるのではないでしょうか。あの漱石もオレと同じような気持だったんだ、なんて、自己中心的な解釈でもいいじゃないですか。当ブログのカテゴリーは勝手に鑑賞です。
「けんにあたれば やしゅあらたなり」 『ちょっと縁側にでも出て、まわりの風景を眺めてみろよ。きっと新しい発見があるだろうから。』 おっしゃるとおりです。気が滅入ったとき、ちょっとした気分転換が大切です。いつも見慣れているはずの自宅の庭でもいい。職場の窓から外の風景を見渡すだけでもいい。季節はうつろっているのです。今、まさに春がやってきているのです。
「たけふこうして うぐいすみだれさえずり」 残念ながら、当方の自宅から、また職場から竹薮は見えません。ましてウグイスなんて風情はありません。でも大丈夫です。問題は気分転換です。うつむいてはパソコンに向かい、見上げては部下に文句を言う。疲れて帰っては早々に床につき、家族との会話もままならない日々。今、見つめる窓の向こうの風景が、車の流れであり、人の波であっても、車からはね返る日差しに春を感じ、人々の服装の変化にふと目を向けてみる。漱石の見た竹薮の深さ、ウグイスの乱舞の景色と同じです。
「せいちゅう がしてはるをきく」 『すぐそこに清らかな昼のさまがあるだろう。ただお前は今まで気付かなかっただけなんだ。どうだい、ちょっと深呼吸するなり寝転ぶなり、雰囲気を変えてともに春を聴こうじゃないか。』 「聴く」は、直接的には前の句にあるウグイスの声を暗示しているのでしょうけど、それだけではありません。「風塵」「老」「野趣」「竹」「鶯」「清昼」と、すべての語句を春という季節の中でつなげて、自らの来し方・行く末を聴いてみないか、というのです。なんとすばらしい表現力でしょう!
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いい詩ですねぇ。おじさん好みです。
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