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2013年3月27日 (水曜日)

「蘭学事始」(杉田玄白著)を読んで。

杉田玄白(1733-1817)といえば「解体新書」、そして「蘭学事始」です。前野良沢中川淳庵とともに教科書に載っているので、ほとんどの人が知っているはずです。私も学生時代には名前を記憶にとどめたものです。とはいえ、それはあくまでもテストのための暗記であって、実際に著作を読んだことなどありませんでした。今回「蘭学事始」を読んで、その情熱と努力に感激した次第です。

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(↑講談社学術文庫、全訳注片桐一男)

当ブログは、一応「古典鑑賞」と銘打っているので、可能な限り原文を読むことにしています。本書は辞書なしで読めるギリギリの古文ではないかと思います。講談社学術文庫版には現代語訳と原文および注が載っているので、至極便利です。

よく知られた逸話も、原文ならではの臨場感が得られます。骨ケ原(小塚原)の腑分に立ち会ってオランダの医学書(ターヘル・アナトミア)の正確さに驚いたこと、一念発起して翌日から和訳を試みるものの、まずアルファベットから学ばなければならないほど基礎知識がなかったこと、「フルヘッヘンド」を堆し(うずたかし)と訳してはどうかと提案して、皆に賛同を得たときの喜び、などなど。

末尾近くを一部引用してみます。

『…かへすがへすも翁は喜ぶ。此道開けなば千百年の後々の医家真術を得て、生民救済の洪益あるべしと、手足舞踏雀躍に堪えざる所なり。翁、幸に天寿を長ふして此学の開けかゝりし初より自ら知りて今の斯く隆盛にいたりしを見ること、これ我身に備りし幸なりとのミいふべからず。伏して考るに、其実は恭く太平の余化より出し所なり。世に篤好厚志の人ありとも、何んぞ戦乱干戈の間にしてこれを創建し、此盛挙に及ぶの暇あらんや。…』

いいですねぇ。文章に無駄がありません。これを玄白が書いたのは解体新書公刊後、約40年経過した83歳のときです。いつのまにか蘭学は盛んになり、同志もほとんどが亡くなってしまった今、「事始め」のころの苦労がゆがめられてきているのを正すため書いた、といいます。そういう憤慨があったからでしょうか。玄白の人柄とともに、当時の蘭学者たちの志がわかります。

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