夕ざくらけふも昔に成にけり、他(一茶)
小林一茶の「七番日記、文化七年二月」から桜を詠んだ句をいくつか鑑賞してみます。
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【天の邪鬼踏まれながらもさくら哉】(あまのじゃくふまれながらもさくらかな)
【よるとしや桜のさくも小うるさき】(よるとしやさくらのさくもこうるさき)
【憎い程桜咲かせる屑家哉】(にくいほどさくらさかせるくずやかな)
一茶ならではの偏屈な句です。笑えます。一茶にとって句を詠む理由のひとつは、ストレス発散であったことがわかります。
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【夕ざくらけふも昔に成にけり】(ゆうざくらきょうもむかしになりにけり)
蕪村の「遅き日のつもりて遠きむかしかな」 と対比されることの多い句です。結句「成りにけり」の、ため息のような物憂さが一茶らしいです。文化七年といえば、一茶四十八歳。未だ独身で江戸に暮らしていたころの、怠惰な中にふと気付いた感懐のようです。
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【花ビラがそとさはっても泪哉】(はなびらがそとさわってもなみだかな)
【咲くからに罪作らする桜哉】(さくからにつみつくらするさくらかな)
【山桜人をば鬼と思ふべし】(やまざくらひとをばおにとおもうべし)
これらの句は、どのように解釈すればいいのでしょうか。咲く花と人の心を、善と悪の象徴として詠んでいるようにも思えます。一茶の句の特徴のひとつは、対象に対する鋭い視線に、ハッとするような小主観を交えていることです。対象が人間であれ自然であれ、句作にあたっては常に“ひとひねり”されており、それを読み解くのが一茶鑑賞の楽しみです。
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【斯う活て居るも不思議ぞ花の陰】(こういきているもふしぎぞはなのかげ)
というのもあります。この句は日常の下世話な心境ではなく、一茶の思索のあと、すなわち “人間はどこからきてどこへ行くのか” のごとき哲学的考察を含んだものとされています。「こういきているもふしぎぞはなのかげ」 と読むか、「こういきておるもふしぎぞはなのかげ」 と読むかで印象が変わりますね。「こういきておる…」と読めば、たしかにあらたまった感じがします。また「花の陰」との取り合わせが意味深です。
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【ちる花や已におのれも下り坂】(ちるはなやすでにおのれもくだりざか)
とはいえ、私自身はこういうのが好きです。何と言うか…、おじさんウケして、思わず噴き出してしまいました。
一茶の句といえども千差万別、鑑賞する者の好き好きによってさまざまに評価できます。ひとつ言えるのは、いずれの句も調べがよくわかりやすいことです。韻文の基本リズムである五七調(七五調)は譲れません。その点一茶は、日本語を使いこなしていました。時代を越えて鑑賞されるゆえんです。
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