思ふどち春の山辺に打ち群れてそことも言はぬ旅寝してしが(素性法師)
古今集より素性法師の歌を鑑賞します。
【思ふどち春の山辺に打ち群れてそことも言はぬ旅寝してしが】(古今集春歌下126)
(おもうどちはるのやまべにうちむれてそこともいわぬたびねしてしが)
(意訳)気のあった者同士が春の山辺に出かけて、何をするともなく、のんびりと旅寝でもしたいものだなぁ。
今年の京都の春は平年を下回る寒い日が多く、暖かくなるのを待ち望んでいましたが、五月も中旬になってようやく気温が上がってきました。この二三日は、好天の過ごしやすい日が続いています。そうなると人は開放感を求めます。開放感の最たるものはやはり旅行です。素性法師(?~910?)は平安時代の人ですが、旅へのあこがれは当時も今も変わらないようです。ここでいう「旅寝」というのは、一泊二日くらいの小旅行でしょう。「思ふどち」「そことも言はぬ」に、日本語の調べのよさを感じます。
(素性法師ゆかりの紫野、雲林院)
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もう一首、新古今集に藤原家隆の作品があります。
【思ふどちそこともしらず行き暮れぬ花の宿かせ野べの鶯】(新古今集春歌上82)
(おもうどちそこともしらずゆきくれぬはなのやどかせのべのうぐいす)
(意訳)気のあった者同士、あてもなく歩きまわっていると日が暮れてしまった。野べのウグイスよ、どうかお前の枝を花の宿としてわれわれに貸してくれないか。
この歌は、一読して素性法師の歌を本歌としていることがわかります。ほんの少し言葉を変えただけで、ある意味盗作です。にもかかわらず別の歌として成立しているのはどうしてでしょうか。ひとつには季節感の違いがあるのだと思います。古今、新古今の違いはあれ、収録されている巻を見ると、素性の歌は春歌下、家隆の歌は春歌上です。具体的には、素性の歌の「旅寝してしが」は惜春で、家隆の歌の「花の宿かせ」「鶯」は花盛りです。満開の花に興奮した作者の心が「宿かせ」となってあらわれていると言っていいでしょう。「旅寝」と「宿かせ」と。ちょっとした言葉の使い方で季節感の違う歌になるのがおもしろいですね。新古今時代に本歌取りが盛んに行われたゆえんです。
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