紫陽花や仰山過ぎて折らずなる(成田蒼虬)
江戸時代末期の俳人、成田蒼虬(なりたそうきゅう、1761-1842)の句を鑑賞します。
【紫陽花や仰山過ぎて折らずなる】(あじさいやぎょうさんすぎておらずなる)
↑先日訪ねた、府立植物園のあじさい園です。180品種、2500株のアジサイが植えられています。
↑ひとつの花が、さらに小さい花の寄り集まりのように見えます。
【「これだけ咲いているのだから、ひとつくらい折ってもいいだろう。でも、いざ折りとる段になると、いったいどれを折ったものか迷うなぁ」…と悩んでいるうちに、結局一本も持ち帰ることはなかった】
特に解釈する必要もないと思いますけど、あえて意訳すればこのようになるでしょうか。『なんのこっちゃ』 と思いつつも、アジサイの特徴をよくとらえています。蒼虬といえば、月並調の大家です。さすがに俗受けするコツを心得ています。正岡子規以来、月並調は排斥されていますけど、これはこれでおもしろい句です。京都の人間ならば『ぎょうさん』という言い回しに、つい笑ってしまうのではないのでしょうか。金沢生まれの蒼虬宗匠、なかなかこなれた京言葉をつかいます。
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府立植物園のあじさい園は、見ごろを迎えて咲き乱れていました。この句同様、折っていく人はいませんでした。ただし、それは『仰山過ぎて』ではなく、来園者のモラルが行き届いているからでした。
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