照鏡見白髪(張九齢)
唐詩選をパラパラとめくっていたら、張九齢の詩が目にとまりました。
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「照鏡見白髪」(鏡に照らして白髪を見る)
宿昔青雲志(しゅくせきせいうんのこころざし)
蹉跎白髪年(さたたりはくはつのとし)
誰知明鏡裏(たれかしらんめいきょうのうち)
形影自相憐(けいえいみずからあいあわれまんとは)
※宿昔→往昔、そのむかし。
※蹉跎 →つまづく、中途で失敗すること。
※形影→鏡に映った自分の姿。
意訳:その昔、若い時には大きな志があった。でも、いつしか挫けて白髪の齢になってしまった。あのころ、いったい誰が考えただろう。鏡に映る自分の姿を憐れむことになるなんて。
張九齢(ちょうきゅうれい、678-740)は、唐代中期の人。玄宗皇帝に仕え、安禄山の野心を見抜いて諫言したものの用いられることはなく、逆に憎まれて左遷されてしまいます。晩年は悠々たる読書三昧でした。玄宗は後になって、「あのとき張九齢の言うことを聞いておけばよかった」 と悔やんだのだそうです。
で、この詩は老いを嘆く詩です。要するに、
「オレも年とったなぁ。昔はガンバローって気持ちもあったけど、挫折ばっかりで、こんな白髪頭になってしまった。ホント、なさけないよ」
と、鏡に向かって愚痴を言ってるだけです。本来そんなことは、人に言われなくても誰でも思うことで、別にどぉ~ってことないハズです。ただ、ちょっと難しい言い回しにして「宿昔青雲の志」「蹉跎白髪の年」と対句にすると、これはもうすばらしい文学作品になるのですから不思議です。主題が単純なればこそ、人々の共感を呼びます。この詩が生まれてから、かれこれ千三百年。おそらくこれからも読み継がれることでしょう。実は奥の深い作品なのかもしれません。
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宿昔青雲の志
蹉跎白髪の年
誰か知らん明鏡の裏
形影自ら相憐れまんとは
【731】
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