夕づく日さすやいほりの柴の戸にさびしくもあるかひぐらしの声(前大納言忠良)
新古今和歌集269、前大納言忠良(さきのだいなごんただよし)の歌を鑑賞します。
「千五百番歌合に」
【夕づく日さすやいほりの柴の戸にさびしくもあるかひぐらしの声】
(ゆうづくひさすやいおりのしばのとにさびしくもあるかひぐらしのこえ)
(意訳)庵に夕日が差し込んで柴の戸を閉ざそうとしたそのとき、「寂しいことだなぁ、ひぐらしの鳴き声が聞こえてきたよ」
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まずはリズムのよさにひかれます。ポイントは「さす」です。夕日が「さす」と柴の戸を「さす」でシャレています。考えてみれば、「さす」にはいろんな意味(漢字)があります。
突きさす。日がさす。魔がさす。傘をさす。花をさす。水をさす。指をさす。目薬をさす。門をさす…
これだけを使い分けるとなると、もう何がなんだかわからなくなってしまいます(笑) それぞれ「刺す」「射す(差す)」「差す」「差す」「挿す」「注す」「指す」「点す」「鎖す」の字をあてます。ここでは、日が「射す」と柴の戸を「鎖す」の使い分けですね。柴の戸というのは簡素な枝折戸のことですが、「鎖す」がわかりにくければ、門扉の閂(かんぬき)を「さす」と思えばイメージしやすいです。
この歌は、金葉集雑上、修理大夫(藤原)顕季の歌、
【ひぐらしの声ばかりする柴の戸は入日のさすにまかせてぞ見る】
を本歌としています。「ひぐらしの声」「柴の戸」「さす」と、まるで同想です。忠良の歌は二番煎じの感が否めません。にもかかわらず新古今集のほうがすぐれていると感じるのはどうしてでしょうか。この歌の場合、ひとつには動詞を減らしてリズムをよくしたこと、もうひとつは初句切れ、体言止めによって言外の余情をもたらしたためと思われます。
ひぐらしが鳴くようになれば夏も終わりです。まさに今がそんな季節。実際にひぐらしの声を聞きながら声に出して詠んでみると、実に味わい深い歌であることがわかります。
『ゆうづくひ さすやいおりの しばのとに さびしくもあるか ひぐらしのこえ』
私は、ちょっとしんみりとした気持ちになりました。
【732】
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