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2013年8月 8日 (木曜日)

不憤不啓、不悱不発(論語)

子曰、不憤不啓、不悱不発、挙一隅不以三隅反、則不復也(述而第七・8)

『子曰く、憤(ふん)せずんば啓(けい)せず、悱(ひ)せずんば発(はっ)せず、一隅(いちぐう)を挙げて三隅(さんぐう)を以て反(かえ)らざれば、則ち復(ふたた)びせず』

(意訳)孔子(先生)がおっしゃった。「心を高ぶらせ、自ら理解しようとするくらいでなければ導いてやらない。何かを言いたくても言葉がみつからず、もごもごしているくらいでなければ教えてやらない。四隅の一隅を引っ張れば、残り三隅を自分で引き上げるくらいでなければ二度と教えない」

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 この章は「啓発」の語源とされ、孔子の教育方針を示すものとされます。「啓」「発」はともに『ひらく』と読み、ここでは「手を貸して教え導く」の意です。孔子は弟子に対して、問題意識を持って自ら学ぶ姿勢が見えなければ、何も教えることはありませんでした。四つのうち一つを聞いて残り三つが見つけられないようでは二度と教えないと、かなり手厳しい口調で述べています。似たような言い回しとして、英語に 『It's up to you!(あなた次第ですよ!)』 があります。

 学校・職場で、生徒や部下にモノを教える難しさはだれもが経験するところで、この章を読めばヒントにはなります。とはいえ、このような悠長なことをやっていて、果たして組織としての結果が残せるでしょうか? 逆に、先生(上司)は何も教えてくれないと苦情がきそうです。教えてもムダなのはわかってるけど、教えないわけにはいかない…と、ジレンマに陥ってしまいます。ひとりひとりのやる気を引き出す周囲の雰囲気・環境づくりが、現在使われている「啓発」の意味になったのはわかりますが、孔子の方法が正しいかどうかは疑問が残ります。

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