行あきや手をひろげたる栗のいが(芭蕉)

秋の深まってきたことを実感する今日この頃、大阪市内にてイガグリのディスプレイを見つけました。芭蕉の句を鑑賞します。
【行あきや手をひろげたる栗のいが】(ゆくあきやてをひろげたるくりのいが)
意訳:晩秋のイガのはぜた栗を見ていると、まるで手を広げて、行く秋を押しとどめているように見える。
ーーーーー
元禄七年、芭蕉は最後の旅で故郷の伊賀に立ち寄ります。死の一か月あまり前のことでした。まわりの目からは衰弱ぶりが目立ったのでしょうか。大坂へ向けて出立しようとする芭蕉を、伊賀の門人たちは引きとめました。この句はそんな門人への挨拶句と言われています。表面上は毬栗(いがぐり)のはぜているのを、秋を惜しんで手を広げている姿に見立てているものの、実は、伊賀の衆が大きく手を広げて、自分の旅を押しとどめようとしていることを暗示しているというのですね。私自身「なるほど、それでイガなんだ!」と、ある意味納得した次第です。
とはいえ、晩年の芭蕉は軽みの句に傾倒していったといいます。単純にイガ(伊賀)を掛けたとするのは、あまりにもダジャレに過ぎます。死を目前に控えた芭蕉の評価を落とすような気もします。
なのでここは、「手をひろげたる」の手は、両手を広げているのではなく掌を開いているととったほうが自然だとする加藤楸邨の説(「芭蕉秀句」角川新書)、および、留別の句であるにしても語呂合わせまで考える必要はないとする山本健吉の説(「芭蕉三百句」河出文庫)に賛成です。これが軽みの句というものでしょうか。「手をひろげたる」に、行く秋にしては明るい印象があります。
【792】
« おめでたい話(リフレクター) | トップページ | 山鳥の枝踏みかゆる夜長哉(蕪村) »
「 勝手に鑑賞「古今の詩歌」」カテゴリの記事
- 夏風邪はなかなか老に重かりき(虚子)(2014.05.21)
- 後夜聞仏法僧鳥(空海)(2014.05.20)
- 夏といへばまづ心にやかけつはた(毛吹草)(2014.05.19)
- 絵師も此匂ひはいかでかきつばた(良徳)(2014.05.18)
- 神山やおほたの沢の杜若ふかきたのみは色にみゆらむ(藤原俊成)(2014.05.17)

コメント