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2013年10月19日 (土曜日)

秋はなほ夕まぐれこそたゞならね荻の上風萩の下露(藤原義孝)

 和漢朗詠集「秋興」より、藤原義孝の歌です。

秋はなほ夕まぐれこそたゞならね荻の上風萩の下露

(あきはなおゆうまぐれこそただならねおぎのうわかぜはぎのしたつゆ)

※なほ=やはり、より一層。

※夕まぐれ=夕暮れ時。

(意訳)秋というのは、夕暮れ時にこそただならぬ風情があるものだ。荻の上を吹き渡る風、萩の下葉に置く露に。

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 ①、倒置法を使っているこの歌、まずは四句・五句の対句「荻の上風、萩の下露」から検討してみます。

 「」と「」。 

 字はほぼ同じで、語呂も似ています。実は、パッと見たとき、同じ字が繰り返されているのかと思いました。よーく見て、はじめて“けものへん”と“のぎへん”の違いに気がつきました。(おぎ)はイネ科で(はぎ)はマメ科。似て非なるものとはこのことで、鑑賞する者を惑わす小憎らしい演出です。

 「上風」と「下露」。

 上と下だけならなんでもない対比です。よく考えると「風」は気体で「露」は液体です。うまい対句だなぁ、と思って、“じゃ固体はどこにあるの?” と問うてみれば、なんのことはない、詠み人の義孝が固体でした。すなわち、気体・液体・固体と、物質の三態が一首の中に表現されていることになります。(とはいえ、少しこじつけです)

 ②、で、そんな秋の季節は、「なほ夕まぐれ」がいいと言います。作者はなぜ「夕まぐれ」に注目したのでしょう?

 それは、夕闇迫る時間帯には、対象を視覚でとらえることが難しくなり、聴覚などほかの感覚を鋭くせざるを得ないからです。つまり、全身に集中力を必要とする夕暮れ時こそ、秋にふさわしい時間帯なのです。目で見る(視覚)よりも、あたりにざわざわと吹く風の音(聴覚)や、体感としてのジメっとした湿気(触覚)にこそ秋の気配を感じたわけです。もしくは萩の香り(嗅覚)がただよってきたのかもしれません。それらは夕暮れ時だからこそ得られる感覚でした。そう考えると、この歌には視覚・聴覚・触覚・嗅覚と、五感のうちの四感までがよみ込まれていることになります。(とはいえ、半分こじつけです)

 ③、そして作者の感動は、「ただならね」に集約されています。なんと素敵な言葉の響きでしょう! 五文字の音感に、作者の感情の高まりを見てとれます。

 ローマ字で書くと「tne」です。4音までが「a」音になっています。これは「あっ!」「あっ!」「あっ!」「あっ!」と驚きの言葉を4回発したのと同じ効果を生みます。4回の感動はそれぞれ「荻」「萩」「風」「露」に対応しており、「あっ、荻!」「あっ、風!」「あっ、萩!」「あっ、露!」というふうに言いかえることができます。作者の興奮は推して知るべしです。(かなりこじつけです)

 ④、最後に、結句「萩の下露」の体言止めが、深い余韻をもたらしています。全体を通してすばらしい表現力です。見事な言い回しとはこういう歌のことをいうのでしょう。はるか後世のものですが、鎌倉時代にできた「撰集抄」には、義孝少将はこの歌を十三歳で詠んだとあります。おそらく無意識に出来たインスピレーションの作品でしょうけど、恐るべき才能です(「撰集抄」の記事は信ぴょう性が低いとされています。めっちゃこじつけです)

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 さて、藤原義孝(954-974)は、容姿端麗、仏道にも深く帰依した人物でした。残念ながら疱瘡にかかって数え年二十一歳の若さで亡くなりました。それゆえ後世さまざまな伝説を生むことになります。よって当ブログも、いささか“こじつけ”が多かったかもしれません。

 ただし、その才を惜しむ気持ちは本物です。いい歌であることは間違いないです。

(あくまでも勝手な解釈&鑑賞であることをお断りしておきます)

【784】

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