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2013年10月30日 (水曜日)

見渡せばながむれば見れば須磨の秋(芭蕉)

 芭蕉の句を鑑賞します。

見渡せばながむれば見れば須磨の秋】(みわたせばながむればみればすまのあき)

(意訳)見渡せば、ながむれば、見れば…、どんな言葉で表現しても、須磨の秋には趣がある。

 言葉のまま受け取れば、「見渡した。眺めた。見た。(感動した!)須磨の秋」 で終わりですけど、それではこの句の意図がわかりません。この句は、須磨の秋を目前にした芭蕉の連想の産物です。

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 ①、「須磨の秋」…源氏物語須磨の巻より。

須磨にはいとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり…』

(意訳)須磨には一層物思いをさせる風が吹いて、海からは少し遠いけれども、かの行平中納言が「関吹き越ゆる」と歌に詠んだ、海岸に打ち寄せる波が、夜になるととても近くに聞こえて、この上なく趣があるのは、こういうところの秋である。

 ②、「見渡せば」「ながむれば」「見れば」は、秋の風景を言い出す際の常套句。たとえば…、

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮】(藤原定家、新古今集秋上)

(意訳)遥かに見渡してみると、春の花、秋の紅葉もない。そんな浦の苫屋の秋の夕暮れの風景。

さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮】(良暹法師、後拾遺集秋上)

(意訳)さびしさに家を出てあたりを眺めてみたが、やはりどこも同じ秋の夕暮れだなぁ。

見れば千々に物こそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど】(大江千里、古今集秋上)

(意訳)月を見れば、いろんなことが思われて物悲しくなってくる。自分ひとりだけに訪れる秋ではないのだけれど。

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 芭蕉は、源氏物語須磨の巻で描写された古来よりの伝統と言うべき「須磨の秋」のイメージに、「見渡せば」「ながむれば」「見れば」という、これまた秋の景色を表現する際の常套句を重ねました。それはあたかも、「おまえにこの句の意味がわかるか?」と、鑑賞する者の古歌に対する知識を試しているかのようです。「見渡せば」「ながむれば」「見れば」の歌は、今思いつくままに挙げてみただけで、芭蕉の連想とは違うかもしれません。ただ、少なくとも、読者に源氏物語や古歌の連想を要求していることは間違いないでしょう。

 この句は延宝六年(1678年)のもので、芭蕉35歳ころの比較的初期の作品とされています。俳諧を単なる言葉遊びとして機知を争うのは、貞門や談林の得意とするところです。初期の芭蕉も大きく影響を受けていたことがわかります。

 とはいっても、発想のユニークさには驚かされます。五七五(実際は中七が字余りなので五八五)の中に、古来よりよく知られた作品をいくつも匂わせる手法の見事さ。体言止めによって余情を持たせるテクニック。字余りにもかかわらず、快い語呂のよさ、音楽性。これらは、いずれも芭蕉特有のものです。

『みわたせば ながむれば みれば すまのあき』

 いいんじゃないでしょうか。私は好きです。

(勝手な鑑賞であることをお断りしておきます)

【795】

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