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2014年1月24日 (金曜日)

水鳥を水のうへとやよそに見むわれもうきたる世を過ぐしつゝ(紫式部)

 千載集巻六「冬」より、紫式部の歌です。

「題不知」

水鳥を水のうへとやよそに見むわれもうきたる世を過ぐしつゝ

(みずとりのみずのうえやとよそにみんわれもうきたるよをすぐしつつ)

(意訳)水に“うき”ながらのんびりしている水鳥をよそ事に見ている実は、私も水鳥のようにふわふわしながら“うき”世の中を過ごしているのに。

ーーーーー

 紫式部日記によると寛弘五年(1008)に、式部のお仕えする中宮彰子が敦成親王(後の後一条天皇)を出産した後に詠まれたものです。このころ式部は、世の中に未練がなくなって出家遁世の気持ちを持ちつつも、なかなか踏み切ることができません。ためらっている自分を、『水鳥と同じで、ふらふらしているなぁ』 と嘆いているわけです。水鳥は気楽そうだけど、やはり苦しいこともあるだろうと、水鳥とわが身を比べています。どこか投げやりな詠み方に、彼女の心境があらわれているように思います。

 「うきたる」に、水鳥の「浮き」と、心の「憂き」を掛けています。私などは、そんなに悩んでいるのだったら掛け言葉など使わず素直に詠めばいいのに、と思ってしまいます。当時の歌人の宿命か、あるいは紫式部自身の文学者としてのプライドか、どんな場合でも言葉遊びを忘れないところがおもしろいですね。

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※勝手な解釈&鑑賞です。

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勝手に鑑賞「古今の詩歌」」カテゴリの記事

コメント

勝手な解釈&鑑賞です。
こんなことを書かれていますが、不思議な気がします。
解釈なり観賞なり記すということはいわば個々の人のそれぞれの思いを記すことで、それを勝手とは言わないはず。自分の勝手な思いだから、人にあれこれ言われたくないそうことでしょうか。一方的な情報発信はコミュニケーションを図ろうということでもない。少なくとも、批判は受け付けませんよ、と。
この歌、前後を読まなければ、どういう意味であったかは恐らくわからないし、さらに、言葉遊びといわれるのも解せない。そもそも和歌ってそうしたものなのでは。「私なら云々」そうかもしれないですね。今を生きる身としては。「勝手な解釈&観賞」だから、それならそれで。

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