春雨や暮なんとしてけふも有(蕪村)
蕪村の句です。
【春雨や暮なんとしてけふも有】(はるさめやくれなんとしてきょうもあり)
(意訳)春雨が降ってるなぁ。…今日も暮れようとしている。
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いろんなことを想像させる句です。言葉だけを追えば上のような訳になりますが、これでは意味をなしません。いったい作者は何を訴えようとしているのでしょうか。手元にある参考書の解説をいくつか引用してみます。便宜上①~④まで番号をつけましたが、他意はありません。
①「毎日毎日春雨が降る。ものうくて何をする気もおこらず、ひっそりと一日を過ごしてしまった。もはや夕闇も迫ってきたが、春雨に暮れなずんで、なかなか暮れきらぬようだ。」(与謝蕪村集 小林一茶集、筑摩書房)
②「絶え間もなしに降りつづけながら、春雨の中にいつしか今日という日も暮れはじめようとしている。思えば、きのうもおとといも、これと同じような日暮であった。」(芭蕉名句集、河出書房新社)
③「しとしとと小やみなく降り続ける春雨。暮れなずむ春の日もようやく暮れようとして、私は今日もしみじみとつれづれの情趣に浸っている。」(蕪村全集、講談社)
④「春雨がしとしとと小止みなく降りつづき、夕暮れがようやく迫ってきたが、暮れそうでいて、なかなか一日が暮れきってしまわないことだ。」(要説 芭蕉・蕪村・一茶集、日栄社)
いずれの解釈にも共通するのは、春雨という季語のイメージです。「物憂い」「しとしと」「絶え間ない」など、日本人ならだれもが感じるであろう春雨のイメージが、共通の認識としてこの句を支えています。俳句における季語の重要性がわかります。その上で4つの解が少しずつ違うのは、結句の「けふも有」を、どのように解釈するかです。
「けふも」の「も」を、昨日も今日も考え「連日の春雨の中今日も暮れようとしている」とするか、今日一日の出来事に注目して、「何か感じるところがあった今日も暮れようとしている」とするかの違いです。
ただし、テキストによっては結句が「けふは有」の形で伝わっているものもあるそうです。「は」と「も」では一字違いで大違いです(笑)
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さて、どの形が正しいのでしょうか? それは作者蕪村に聞いてみるしかないです。こうしていろんな形、解釈ができること自体が、この句のすぐれたところであり、蕪村の詩人としての奥深さだと思います。
【990】
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